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日本人および天皇家のルーツに関する「騎馬民族説」の最新の状況と科学的再検証

日本人および天皇家のルーツに関する「騎馬民族説」の最新の状況と科学的再検証

要旨

江上波夫氏が1948年に提唱した「騎馬民族征服王朝説」は、戦後日本の歴史学界に一石を投じ、その壮大な物語性から一般大衆に広く浸透しました。この説は、朝鮮半島からの騎馬民族の征服によってヤマト王権が樹立され、現在の皇室のルーツが形成されたと主張するものです。しかし、その後の学術的検証、特に考古学や文献史学からの厳格な批判に直面し、今日では定説として認められていません。

本報告書は、騎馬民族説の歴史的意義を評価しつつ、最新の科学的知見、特に古代DNA研究の成果に基づいて、この仮説を再検証します。近年のゲノム解析によって、日本人のルーツは、縄文時代から続く在来系、弥生時代に流入した北東アジア系、そして古墳時代に流入した東アジア系という、三つの異なる集団の複合的な混血によって形成されたとする「三重構造モデル」が有力視されています。この知見は、大規模な武力による「征服」ではなく、複数世紀にわたる人口の継続的な流入と、技術・文化の段階的な融合という、より複雑で精緻な歴史的プロセスを示唆しています。

結論として、騎馬民族説が主張するような単一の武力征服は否定されますが、ヤマト王権の成立と発展に渡来人が決定的な役割を果たしたという点は、最新の科学によって新たな文脈で補強されています。天皇家のルーツは、国内で形成された有力な政治勢力が、大陸から流入する先進技術と、それを担う渡来人集団を戦略的に取り込むことで、その支配を確立していった、多層的かつ複合的な歴史の結果であると解釈されるべきです。

1. 序章:騎馬民族説の提唱とその歴史的意義

1.1 江上波夫による騎馬民族征服王朝説の概要

「騎馬民族征服王朝説」は、考古学者である江上波夫(1906-2002)によって、戦後間もない1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題されたシンポジウムで初めて提唱されました 1。この説は、後に1967年に出版された江上氏の代表作『騎馬民族国家』でその全容が示されています 6

この説の核心は、紀元4世紀末から5世紀前半頃に、遙か東北アジアに起源を持つ夫余系の騎馬民族が朝鮮半島から日本列島に渡来し、在来の農耕民族を武力で征服して統一国家を樹立したというものです 2。江上氏は、この征服王朝の開祖が『記紀』に記される崇神天皇であり、現皇室の始祖であると大胆に主張しました 6。これは、「天皇家の始祖は朝鮮にある」と公然と唱えるものであり、旧来の皇国史観が支配的であった当時の日本社会に強い衝撃を与えました 6

江上氏の論拠は、考古学、文献史学、民族学を総合的に検討した結果とされました 8。特に、説の基盤となったのが、古墳時代前期(3世紀から4世紀)に特徴的な農耕文化と、古墳時代後期(5世紀以降)に突如として出現する馬具や甲冑などの騎馬文化の間に「本質的な断絶」があるという解釈です 5。江上氏は、この文化的な変容こそが、外部からの武力征服があったことの揺るぎない証拠であると論じました。

1.2 時代の空気と学説の受容

この説が提唱された昭和23年(1948年)という時期は、第二次世界大戦の敗戦によって、旧来の神話に基づいた「皇国史観」が否定され、日本の歴史観が一時的に空白となった、まさに変革期でした 1。多くの人々が新たな歴史像を求めているなか、江上氏の説は、従来の閉塞感に満ちた歴史観とは一線を画す、壮大でロマンあふれる物語を提供しました 7

江上氏自身も、権威ぶらず、話し上手な「語り部」としての天性の才能を活かし、講演や対談を通じて精力的に普及活動を行いました 1。その結果、学界からの批判的な反応とは対照的に、この説は一般大衆や一部のマスメディアの間で広く受け入れられ、一種の「昭和の伝説」となりました 1。これは、日本の歴史を「外来者による征服」という非伝統的な物語で捉え直すことが、旧体制からの脱却を象徴する「科学的」で「新しい」歴史観として、当時の社会心理に合致したためと考えられます。単なる歴史仮説を超えて、時代のニーズに応える形で広まったこの事例は、学術的な妥当性とは別の次元で、社会心理的な要因が学説の受容に大きな影響を与えることを示唆しています。

2. 考古学・文献史学からの定説的批判

騎馬民族説が一般に広まる一方で、学界からは、その論理構造と根拠の不十分さについて厳しい批判が寄せられました。特に、考古学と文献史学の専門家から、説の根幹を揺るがす具体的な反論が提示されています。

2.1 考古学的反証:古墳文化の「断絶」の否定

騎馬民族説の最も重要な論拠である「古墳時代前期と後期の文化の断絶」について、多くの考古学者は、発掘調査の成果に基づき、征服があったと結論付けるには不十分であると反論しました 1。考古学的な研究からは、文化の「断絶」ではなく、むしろ強い「連続性」が認められるという見解が主流となりました 9

具体的な反証として、墳墓様式と副葬品の継続性が挙げられます。弥生時代終末期には、畿内、特に奈良盆地東南部に有力者の墳墓が顕在化し、中国からもたらされた画文帯神獣鏡や、それを模倣した三角縁神獣鏡が多数集積されていました 10。これは、ヤマト王権が弥生時代からすでに、各地の有力者と継続的な政治関係を結び、その権力基盤を国内で形成していったことを示唆しています 10。また、箸墓古墳に代表される前方後円墳の形式が、畿内から徐々に西は九州、東は東北南部にまで広まった事実は、外部からの征服による文化の一斉上書きではなく、ヤマト王権が国内の豪族連合を形成する過程で、共通の政治的シンボルとして広まったと考える方がより自然です 13。考古学が重視する「連続性」は、劇的な征服ではなく、内部的な政治統合と、外来技術・文化の「選択的受容」という、より穏やかな歴史モデルを支持しています。

また、5世紀以降に馬や馬具が日本列島に伝来したこと自体は事実ですが 9、これが大規模な武力征服によるものであるというには、考古学的証拠が決定的に不足しています 9。当時の船で大量の馬を運ぶことの現実的な困難さや 6、騎馬戦闘による犠牲者の痕跡が古墳被葬者から見つかっていないといった、具体的な批判が寄せられています 1

2.2 文献史学からの検証:史料解釈の恣意性

文献史学の立場からは、江上氏の説が「史料批判の甘さ」や「強引な史料の引用、恣意的な解釈」によって成り立っていると厳しく指摘されました 1。その論証は「断片的でおおざっぱ過ぎる」と評価され、体系的な論理的整合性に欠けるため、学説として成り立ちがたいとされました 1

2.3 説の思想的側面への指摘

さらに、江上説は「騎馬民族と農耕民族には優劣がある」という誤った差別観に基づいている点も批判の対象となりました 1。特定の人間集団に優劣を付けるこのような歴史観は、危険な「侵略史観」につながりかねないとして、その思想的側面にも深い懸念が表明されました 1

3. 最新の科学的知見による再検証:古代DNA研究の衝撃

騎馬民族説が提唱された時代には想像もできなかった科学技術の進展が、近年、日本人のルーツに関する議論に新たな光をもたらしています。特に、古代人骨から直接DNAを抽出・解析する「パレオゲノミクス(古代ゲノム学)」は、歴史学に新たなパラダイムシフトをもたらしました 18

3.1 日本人形成モデルのパラダイムシフト

これまでの日本人のルーツに関する学説は、1991年に人類学者・埴原和郎氏が提唱した「二重構造モデル」が長らく有力でした 20。このモデルは、日本人の起源を、旧石器時代から日本列島にいた在来の「縄文人(東南アジア系)」と、弥生時代に大陸から流入した「渡来人(北東アジア系)」の混血によって説明するものでした 20

しかし、2021年に発表された最新の研究成果は、このモデルをさらに精緻化し、現代日本人のルーツが、以下の三つの系統から構成される「三重構造モデル」であることを科学的に実証しました 19

  1. 縄文系: 旧石器時代から日本列島に住んでいた狩猟採集民。
  2. 弥生系: 弥生時代に朝鮮半島を経由して北部九州に流入し、稲作農耕をもたらした北東アジア起源の渡来人。
  3. 古墳系: 古墳時代に東アジアから流入した、弥生系とは異なる新たな渡来人集団。

国立科学博物館の篠田謙一館長によると、最新のゲノム解析の結果、現代日本人のDNAの80%から90%は、弥生時代以降に大陸から渡来した集団に由来することが明らかになっています 23。この事実は、単一の武力征服ではなく、弥生時代から古墳時代にかけての数百年にわたる、大規模かつ継続的な人口流入があったことを強く示唆しています 23

3.2 古墳時代渡来人の役割とゲノムの痕跡

古代DNA研究は、考古学的な知見とも深く連動しています。福島県の灰塚山古墳から出土した人骨のDNAからは、渡来系のミトコンドリアDNAと縄文由来のY染色体DNAの両方が検出され、すでに異なる集団間の混血が進んでいたことが明らかになっています 25。この古墳時代のDNA解析の成果は、この時期に日本列島で飛躍的に普及した馬、鉄器、須恵器といった先進技術が、単なる文化の受容ではなく、それを担う人々、すなわち渡来人の流入を伴っていたことを裏付けるものです 19

文献史料や考古学の知見と併せると、古墳時代に流入した渡来人は、ヤマト王権の支配を強化する上で不可欠な技術(鉄器生産、須恵器生産、馬の飼育など)をもたらしました 27。彼らは単なる「征服者」ではなく、王権の統治機構に組み込まれた技術者集団として、国内支配の深化に貢献したと考えられます 27

3.3 征服王朝説と最新知見の決定的な違い

騎馬民族説が「武力による少数のエリートによる征服」という劇的な出来事を前提とするのに対し、最新のゲノム研究は「継続的な人口流入と文化・技術の緩やかな融合」という、より穏やかで複合的なプロセスを示しています 22

これは、両者の前提とする人口動態が根本的に異なるためです。武力征服であれば、支配層の人骨に特定の外来系統の遺伝子が突然、支配的に現れるはずです。しかし、古代DNAが示すのは、農耕という生産様式の優位性による、渡来系人口の緩やかな増加と、それに伴う在来系集団の相対的な減少です 23。このプロセスは、篠田氏が指摘するように「農耕民が狩猟採集民をゆるやかに吸収していく世界的なケース」と一致しており 23、軍事的な征服ではなく、社会構造の変容が日本人のルーツを形成したという精緻な物語を物語っています。

4. 現代的視点による天皇家のルーツ:複合的な起源

4.1 騎馬民族説の現代的意義と修正説

騎馬民族説は、学術的には否定されたものの、その歴史的意義は軽視できません 5。古代史研究に「外部からの視点」という新たなアプローチを導入し、従来の在来説との論争を活発化させたことで、結果的に日本古代史研究を深化させる大きな契機となりました 5。なお、江上説の修正や発展を試みる「ネオ騎馬民族説」や「修正説」も存在しますが 9、これらが学界の主流となるには至っていません。

4.2 ヤマト王権の「国内成長」モデル

騎馬民族説が外的要因による国家形成を主張したのに対し、現在の主流学説は、ヤマト王権が日本列島内で形成・成長したとする「国内成長説」に立脚しています 13

この説の強力な根拠となっているのが、奈良県桜井市に位置する纒向遺跡と箸墓古墳です。発掘調査の結果、纒向遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初頭に突如出現した、当時最大規模の都市的集落であり、全国各地の土器が出土していることから、広域的な交流の中心地であったことが示されています 13。この考古学的な発見は、邪馬台国がそのまま初期ヤマト王権へと発展したとするストーリーに強い整合性をもたらしました 14

ヤマト王権は、朝貢貿易を通じて中国皇帝の権威と鉄資源を独占し、地方豪族への支配を強めていったと考えられています 13。このように国内で形成された政権が、5世紀以降、朝鮮半島との外交や軍事的な関与を強め、その過程で大陸の先進文化や技術、そして渡来人を受け入れていったと見るのが自然な流れです 9

4.3 最新の複合的見解:融合と支配の多層性

現代の学説は、騎馬民族説のような単純な「征服」モデルと、渡来人の影響を過小評価する在来説の両方を乗り越え、より複合的な歴史像を描き出しています。天皇家のルーツは、単一の集団による征服ではなく、以下の多層的な要素が絡み合った結果であると考えられます。

  1. 在来勢力の発展: 弥生時代に国内で形成された有力な政治勢力(邪馬台国/ヤマト王権)が、全国の地方豪族を政治的に統合していくプロセス 13
  2. 継続的な渡来人の流入: 弥生時代から古墳時代にかけて、複数系統の渡来人が断続的かつ大規模に流入し、列島全体で人口を増加させた 19
  3. 技術と文化の選択的受容: ヤマト王権が、その支配をより強固にするために、渡来人がもたらした先進的な技術(鉄器生産、馬の飼育など)や文化を積極的に取り入れ、これを独占的に活用した 9

これらの要素は、一見矛盾するように見えますが、実は両立可能です。外部から武力で征服されるのではなく、国内で成長したヤマト王権が、その権力基盤をさらに強固にするために外部の先進技術を必要とした、と考えることができます 9。その技術の担い手こそが、朝鮮半島の混乱から逃れてきた渡来人たちであり、彼らは王権の支配下で技術者集団として組み込まれました 27。これは、征服者と被征服者の関係ではなく、支配者と技術提供者の関係であり、渡来人の遺伝子や文化が列島に広まったのは、軍事力ではなく、ヤマト王権の統治機構を通じてであったことを示唆しています 27

したがって、天皇家のルーツは、在来のヤマト王権を構成していた集団に、朝鮮半島経由で流入した渡来人の技術や血統が複合的に融合し、その結果として形成されたと見るのが妥当です。

表1:騎馬民族説の主要論点と従来の学術的批判
騎馬民族説の主張従来の学術的批判
ヤマト王権の起源は北アジア騎馬民族による征服である 6邪馬台国からの国内発展(畿内説)が有力である 13
古墳時代の文化は前期(農耕)と後期(騎馬)に断絶している 7断絶ではなく、墳墓様式や副葬品に強い連続性が見られる 9
馬の伝来は、征服軍の軍事力として導入された 6朝鮮半島との交流による技術受容であり、征服の証拠はない 9
文献的根拠として、『記紀』神話や『魏志』を恣意的に解釈する 6史料批判が甘く、論証が体系的ではない 1
騎馬民族の優位性を前提とした歴史観を持つ 1特定の民族に優劣をつける危険な思想である 1
表2:最新の古代DNA研究が示す日本人形成モデル
モデル名二重構造モデル
提唱者埴原和郎
構成要素縄文人(基層集団)、弥生人(渡来集団)
各系統の特徴縄文人: 東南アジア系、狩猟採集民、在来集団 21
弥生人: 北東アジア系、稲作農耕、人口流入 21
現代日本人に残る遺伝子の割合渡来系が70-90%を占める 21

5. 結論と今後の展望

江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」は、日本の歴史観に一石を投じた大胆な仮説であり、そのロマン性から戦後社会に広く受け入れられました。しかし、その根幹をなす「征服」という主張は、考古学が示す古墳文化の連続性や、史料解釈の恣意性といった観点から、学術的には定説となり得ませんでした。

近年の古代DNA研究の飛躍的な進展は、この歴史的議論に新たな科学的根拠をもたらしました。大規模な武力征服という説の根幹を否定し、日本人の形成が「縄文」「弥生」「古墳」という三つの系統の複合的な混血と融合の過程であったことを実証しました 19。これは、特定の民族による「征服」ではなく、複数世紀にわたる人口移動と、それに伴う文化・技術の緩やかな伝播と融合という、より複雑で豊かな歴史像を提示しています 23

今後、より多くの時代の、より多くの地域の人骨から古代DNAが解析されることで、日本列島における人口移動の経路、時期、規模がさらに詳細に解明されることが期待されます 19。これにより、天皇家のルーツに関する研究も、特定の民族や征服者という単純な図式を超え、多文化・多民族が融合して古代国家が形成されていった、より豊かな歴史的真実へと深化していくことでしょう。

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