聖徳太子の実在性をめぐる論争に関する専門報告
エグゼクティブサマリー
聖徳太子の実在性をめぐる論争は、単に「伝説的な人物は本当に存在したのか」という単純な問いにとどまらない、より複雑で多層的な学術的探求である。この問題の核心は、厩戸王(うまやどのおう)という実在の人物と、後世に創出された英雄的・聖人像としての「聖徳太子」とを峻別することにある。この議論は、明治期以来の伝統的な歴史観を揺るがし、日本の古代史、さらには歴史叙述そのものに対する理解を根底から見直す契機となった。
本報告は、まず伝統的な聖徳太子像の確立過程を分析し、その主要な典拠が、厩戸王の死後およそ1世紀後に編纂された『日本書紀』にあることを指摘する。次に、1990年代に本格化した「聖徳太子虚構説」の主要な論拠、すなわち文献批判、美術史的分析、そして政治的・宗教的な動機を詳細に検証する。これに対し、法隆寺の建立年代をめぐる考古学的・科学的証拠や、同時代の傍証史料から導かれる反論を提示する。
最終的に、現代の学術的な合意は、厩戸王が推古朝において蘇我馬子と並び立つ有力な王族であったという実在性を肯定しつつも、冠位十二階や十七条憲法の制定といった革新的な業績が、全て彼一人の手によるものではなく、死後、天皇を中心とする律令国家の正当性を確立するために、政治的に理想化され、歴史に投影されたものであるという、多角的な視点へと収斂している。この論争は、歴史学が単なる過去の記録ではなく、同時代の政治や文化、そして国民のアイデンティティと密接に絡み合う動的な営みであることを示している。
Part I: 伝統的聖人像の形成 – 伝承の起源
1.1 聖徳太子の伝統的イメージ
聖徳太子は、日本の歴史において比類なき革新者として、長らく国民的な英雄とされてきた。その名は厩戸王(厩戸皇子)といい、用明天皇の第二皇子として生まれ、母は穴穂部間人皇女であるとされる 1。幼い頃から聡明で、一度に10人の訴えを聞き分けることができたという伝説は、その卓越した知性を象徴している 2。推古天皇の摂政に就任して以降、彼は仏教を篤く信仰し、日本の国づくりを主導したと伝えられる 3。
彼の主要な業績として、伝統的に以下のようなものが挙げられる。第一に、冠位十二階の制定である。これは、これまでの氏姓制度のように出自によって役人の地位が決まるのではなく、徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けた十二の階位を設け、能力に応じて官僚を登用する画期的な制度であった 3。これにより、天皇を中心とした国家秩序を確立しようとしたとされる 5。第二に、
十七条憲法の制定である。これは「日本初の憲法」と称され、現在の憲法のような法体系ではなく、主に官僚や豪族の心構えを説いた道徳規範であった 3。その第一条「和を以て貴しと為す」(和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ)は、現代に至るまで日本社会の精神的基盤として広く知られている 4。また、この憲法は仏教を篤く信仰することを説き、仏教を国家の精神的支柱と位置づける役割も果たした 4。
対外的には、遣隋使の派遣を主導したと伝えられる。小野妹子を隋に派遣し、中国の進んだ制度や技術、文化を積極的に導入した 1。特に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書は、中国皇帝と対等な立場で日本の独立性を主張したものとして、日本の外交史上における画期的な出来事とされている 4。また、彼は仏教に対する深い理解と信仰を持ち、仏教の解説書である『三経義疏』を執筆し、法隆寺のような寺院を建立したとされる 3。これらの業績は、明治期に近代国家の理想と重ね合わされ、聖徳太子像が教科書を通じて国民的英雄として顕彰される基盤となった 7。
1.2 根本史料としての『日本書紀』の役割
聖徳太子の伝統的な業績のほとんどは、養老4年(720年)に完成した正史『日本書紀』の記述に依拠している 2。この点が、現代の論争の出発点となる。まず、『日本書紀』が厩戸王の死(622年)から約1世紀後に編纂されたという事実が重要である 2。歴史叙述の性質上、これほどの時間が経過すれば、同時代史料の散逸や、口伝による伝承の脚色、そして編纂者側の意図が強く反映されることは避けられない。
実際、『日本書紀』は厩戸王を、生まれながらにして言葉を話し、聖人のような知恵を持ち、予知能力を備えた人物として、驚異的な描写を加えて叙述している 2。こうした描写は、彼を単なる歴史上の人物ではなく、超人的な能力を持つ聖人として位置づけようとする意図があったことを示唆している。さらに、『日本書紀』が用いる「天皇」や「皇太子」といった称号、「摂政」という役職は、厩戸王が存命であった時代にはまだ制度として確立されていなかった可能性が高いと指摘されている 7。これらの称号が後世の時代錯誤的な用法であるとすれば、テキストの信頼性は再検討を要する。
このような史料的基盤の脆弱性は、なぜ聖徳太子像が創出されたのかという問いにつながる。推古天皇の時代は、大和朝廷が中国・隋のような中央集権的な国家体制を築きつつあった時期であり、続く奈良時代には律令制が本格的に整備され、天皇の権威が絶対的なものとして確立される必要があった。当時の権力者であった藤原不比等らは、新たな国家体制の正当性を歴史的に確立するために、過去に理想的な聖天子(儒教・仏教・道教を庇護する皇帝)が存在したという物語を必要とした可能性がある 2。
この目的のために、厩戸王は理想的なモデルと見なされた。彼は有力な王族であり、仏教を重んじ、国際的な視点を持っていた。しかし、その直系子孫は絶えており、彼を英雄として描いても、当時の有力氏族との政治的な軋轢を生む心配がなかった 2。このように、歴史は単に過去を記録するだけでなく、同時代の政治的要請に応えて再構成されるという側面を持つ。この視点から見れば、『日本書紀』は単なる歴史書ではなく、天皇の統治を正当化するための政治的なマニフェストとしての側面を強く持っていたと考えられる。
伝統的業績 | 典拠 | 学術的論点 |
十七条憲法制定 | 『日本書紀』 3 | 厩戸王の死後1世紀の創作か、集団的成果か 2 |
冠位十二階制定 | 『日本書紀』 3 | 厩戸王一人の業績か、集団的な改革か 14 |
摂政の地位 | 『日本書紀』 3 | 「摂政」という職位は当時存在しなかったか 11 |
『三経義疏』執筆 | 伝承、法隆寺 3 | 偽作説や後世の加筆説がある 6 |
法隆寺創建 | 『日本書紀』 3 | 670年の火災記事と矛盾する、現存建築物の年代が異なる 17 |
Part II: 虚構説の台頭 – 伝統への挑戦
2.1 論争の核心
聖徳太子の歴史的実像に関する論争は、長らく燻っていたが、1990年代後半に中部大学名誉教授の大山誠一氏が提唱した「聖徳太子虚構説」によって大きな注目を浴びることとなった 19。この説の核心は、聖徳太子という人物そのものが実在しなかったと主張するのではなく、伝説的な業績を持つ聖人としての「聖徳太子」像が、後世の政治的意図によって捏造されたという点にある 7。大山氏は、厩戸王という人物が実在し、斑鳩に宮殿や寺を建てたことは認めるものの、十七条憲法や『三経義疏』の制定・執筆といった偉大な功績は、全て後世の創作であると主張した 2。
2.2 虚構説の主要な論拠
A. 文献批判と史料の空白
虚構説の第一の論拠は、確実な同時代史料の欠如である 2。『日本書紀』や法隆寺関連の史料が厩戸王の死後1世紀以上経てから作成されたものであるため、その記述は後世の視点や意図が強く反映されていると指摘される 7。
さらに、中国の正史『隋書』の記述との相違が挙げられる。608年に遣隋使が隋を訪れた際の記録には、日本の王が「男性」であると記されている 11。これは、当時の日本の統治者が女性の推古天皇であったという『日本書紀』の記述と矛盾している 11。また、中国の太子に対応する有力な王子がいたという記述は存在するものの、それが厩戸王であったという確実な根拠はない 11。
また、当時の日本には「摂政」という役職が存在しなかったという点も指摘される 11。同様に、「天皇」や「皇太子」といった称号や制度も、厩戸王の存命時には確立されていなかった可能性が高く、これらの称号が『日本書紀』に登場するのは、編纂者による時代錯誤的な記述であるとされる 7。
B. 肖像画と美術史的観点
旧壱万円札の肖像画として広く知られる「唐本御影」も、虚構説を補強する材料として挙げられている 7。多くの歴史研究家は、この肖像画が厩戸王の死後100年ほど経てから想像で描かれたものだと指摘している 11。具体的には、聖徳太子が手に持つとされる笏(しゃく)が、当時のものではない可能性が指摘されている 11。また、肖像画に描かれた服装や冠が、飛鳥時代ではなく、『日本書紀』が編纂された奈良時代の様式に合致しているという見解もある 11。さらに、彼の髭の部分は、筆質や筆圧が異なり、後世に加筆されたものだという指摘もなされている 11。これらの事実は、この肖像画が厩戸王の実際の姿を描いたものではなく、後世に理想化されて創作された芸術作品であることを強く示唆する。
C. 政治的・宗教的動機
虚構説は、聖徳太子像が創出された背景に、明確な政治的・宗教的動機があったと説明する 2。『日本書紀』の編纂者たちは、中国の律令国家を模範とし、その頂点に立つ天皇の絶対的権威を確立しようとしていた 2。しかし、当時の天皇の権威はまだ絶対的なものではなかった。そこで、過去の歴史に、儒仏道三教を深く理解し、国政を主導した理想的な聖天子像を投影する必要が生じた 2。
この役割に厩戸王が選ばれたのは、単なる偶然ではない。彼は実在の人物であったため、全くの架空の人物を創作するよりも物語に信憑性を持たせることができた 2。また、彼の直系の子孫は絶えており、彼を聖人として神格化しても、当時の有力氏族との間で権力闘争の火種になる心配がなかった 2。このように、歴史叙述は単に過去を記録する行為ではなく、同時代の政治的・イデオロギー的要請に応えて行われるという、歴史学の根源的な側面がここに見出される。聖徳太子像の再構築は、国家の正当性とアイデンティティを確立するための、きわめて巧妙な政治的企図であったと解釈される。
この議論が社会に与えた影響は大きく、特に教科書における聖徳太子の表記を「厩戸皇子(聖徳太子)」に変更しようとした際には、「国民的な英雄を抹殺するものだ」という批判が殺到し、国会でも議論される事態となった 22。これは、学術的真実の探求が、国民が長年共有してきた歴史的記憶やアイデンティティとどのように深く結びついているかを示す象徴的な出来事である。
Part III: 反論と新たな証拠 – 歴史的存在の再評価
3.1 虚構説への学術的反論
聖徳太子虚構説に対し、多くの歴史学者が詳細な論拠を基に反論を行ってきた 19。虚構説の提唱者が「学問的な根拠をあげた反論は皆無」と述べていることに対して、実際には複数の学者によって、その主張が曖昧な根拠や誤った情報に基づいていると批判されている 13。
例えば、反論者は、大山氏の主張する「聖徳太子に関する確実な史料は存在しない」という前提自体を問題視する。古代のすべての人物や事象に関して、厳密な意味で「確実な史料」は存在しないため、虚構説の論法は行き過ぎた議論であると指摘される 8。さらに、聖徳太子の存在を傍証する資料として、『三経義疏』、『天寿国繍帳』、法起寺塔露盤銘などが挙げられ、これらがすべて捏造であると断定することは困難であると主張される 10。
特に、なぜ天皇になっていない厩戸王を理想の聖人として取り上げたのかという点も反論の対象となる。もし天皇の権威を正当化するためならば、より直接的に天皇そのものを神格化する歴史を創作する方が自然である。あえて天皇の位に就いていない人物をモデルに選んだことは、その人物が実際に卓越した存在であったことの証左であると解釈することも可能である 25。
3.2 法隆寺・法起寺論争:実物証拠の力
聖徳太子論争の中でも、最も中心的な議論は法隆寺の建立年代をめぐる「再建・非再建論争」である 26。この論争は、明治から昭和にかけて30年以上にわたり、多くの学者を巻き込んできた。
伝統的な再建説は、『日本書紀』の「天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼した」という記事を根拠とする 16。この説は、1939年の発掘調査で、法隆寺の前身である若草伽藍の焼け跡が発見されたことで決着を見たかのように思われた 26。この発見は、現在の西院伽藍が焼失後に再建されたことを決定的に証明するものと受け止められた 27。
しかし、近年、新たな科学的証拠がこの定説に重大な疑義を投げかけた。法隆寺五重塔の心柱の年輪年代測定が行われた結果、そのヒノキが594年頃に伐採されたものであることが判明したのである 3。この年代は、聖徳太子が摂政に就いた推古天皇の時代に該当する 3。この事実は、『日本書紀』が記す670年の火災記事と直接的に矛盾する。もし『日本書紀』の記述が正しければ、なぜ再建されたはずの五重塔に、火災以前の木材が使われているのかという問題が生じるのである 17。
この発見は、歴史の解釈が、文献史学、考古学、そして科学的分析という複数の異なるアプローチによって、絶えず再構築される過程を示している。この年輪年代測定の結果は、長年信じられてきた再建説を根本から揺るがし、法隆寺の現存する主要な建築物には厩戸王時代のものが含まれている可能性を強く示唆するものである。これにより、聖徳太子と法隆寺の間に強固な物理的・時間的つながりが存在したという見解が再び説得力を持つことになった。
3.3 傍証史料の再検討
虚構説への反論は、法隆寺の建築物だけでなく、他の史料にも及んでいる。
- 『三経義疏』: 聖徳太子が著したとされる仏教注釈書である『法華義疏』、『維摩経義疏』、『勝鬘経義疏』の総称 6。この書には、中国の仏教注釈を単に模倣するだけでなく、それを批判し、独自の解釈が加えられている箇所が多数見られる 6。この知的水準の高さは、当時の日本の仏教知識が非常に高度であったことを物語っており、厩戸王の並外れた仏教理解を示す証拠となりうる。ただし、この書が後世の加筆であるという説や、一部の記述が厩戸王の時代よりも後の中国文献に依拠しているという指摘もあり、真偽は依然として議論されている 6。
- 『天寿国繍帳』: 厩戸王の死後、妃が彼の往生した天寿国の様子を刺繍で描かせたとされる作品 30。この作品は、日本最古の刺繍の一つであり、その銘文は厩戸王の死を悼む記述を含んでいる 30。この存在は、死後まもなく、厩戸王という人物に対する深い崇敬(太子信仰)が始まっていたことを示す具体的な物証である 30。これは、聖人像の創出が遥か後世の出来事であるとする虚構説に対し、歴史的な人物の実在と、死後ただちに彼が特別な存在として認識されていたことを証明する重要な証拠である。
- 法起寺塔露盤銘: 法起寺三重塔の露盤に、慶雲3年(706年)に「上宮太子聖徳皇」の銘が刻まれていたとされる 13。この銘文は、720年の『日本書紀』完成よりも前に「聖徳」という称号が使用されていた可能性を示唆する 13。虚構説の論者は、この銘文は後世の偽作であると主張するが、その論証は推測に頼る部分が大きいと批判されている 13。
物証 | 虚構説の解釈 | 実在肯定説の解釈 |
『三経義疏』 | 後世の偽作または加筆であり、厩戸王の著作ではない 6 | 厩戸王の高度な仏教理解を示す、日本初の本格的注釈書 6 |
『天寿国繍帳』 | 死後の崇敬の始まりを示すが、業績の証拠ではない 32 | 厩戸王という人物の実在と、死後まもない崇敬を示す物証 30 |
法隆寺五重塔心柱 | 670年火災説を強く否定する決定的な証拠 17 | 厩戸王時代の建築物が現存することを示す 28 |
法起寺塔露盤銘 | 露盤自体が後世の偽作である 13 | 『日本書紀』編纂以前の「聖徳」号の使用を示す傍証 13 |
Part IV: 総合的な分析と現代的合意
4.1 歴史的人物像の変遷
聖徳太子の実在性に関する長年にわたる論争は、伝統的な無批判な英雄像も、過激な虚構説も、単独ではすべての証拠を説明しきれないという結論に至った 10。現代の学術的なコンセンサスは、これら両方の立場を乗り越え、より複雑で多層的な歴史的理解へと移行している。
現在の通説は、推古朝において蘇我馬子とともに政権の中枢を担った厩戸王という実在の人物がいたことを確実視している 7。彼は斑鳩に宮殿や寺を営むほどの権勢を誇った有力な王族であり、中国からの仏教や制度の導入に深く関与した人物であった 2。しかし、彼が晩年のわずかな期間に全ての革新的な改革を一人で成し遂げたという『日本書紀』の記述は、死後、政治的・宗教的な目的から大きく脚色されたものだと考えられている。彼に与えられた「聖徳」という諡号や「太子」という称号は、彼の死後1世紀を経て、律令国家の正当性を確立しようとする編纂者たちによって、過去に遡って付与されたものである 2。
この見解は、聖徳太子の伝説的な業績を全て否定するものではなく、それらを厩戸王時代から始まる日本の国家形成期における集団的な努力や、後の時代の政治的意図が投影されたものとして捉え直す。この視点に立てば、聖徳太子像は、歴史的真実と、時代が求めた理想的な英雄像が融合して形成された、動的な構築物であると言える。
4.2 日本史への広範な影響
聖徳太子をめぐる論争は、単なる古代史の一問題にとどまらず、日本の歴史観そのものに広範な影響を与えている。
第一に、教育現場における歴史教育のあり方を変えた。長らく「聖徳太子」とだけ表記されてきた教科書の記述は、論争を受けて「厩戸皇子(聖徳太子)」と併記されるようになった 23。この変更は、学術研究の成果が教育に反映される好例である一方、同時に、国民が抱く歴史的英雄像と学術的知見との間に存在する深い溝を浮き彫りにした。国民が「国民的英雄を抹殺するものだ」と反発したことは 22、歴史が単なる学問的対象ではなく、国家のアイデンティティを構成する重要な要素であることを示唆している。
第二に、古代日本の国家形成過程の理解を刷新した。聖徳太子論争は、大化の改新や律令国家の成立を、一人の天才の功績としてではなく、中国・朝鮮半島からの制度や文化の積極的な導入(遣隋使派遣はその一環である)と、国内の複雑な豪族社会の対立(蘇我氏と物部氏の争いなど)の中で、段階的に中央集権化が進行した、より複雑なプロセスとして捉え直す契機を与えた 4。この議論は、歴史学の焦点が、個々の英雄的人物から、社会構造や集団的な潮流へと移っていることを示している。
この論争を通じて、歴史学は、単に事実を列挙する行為から、「なぜ、誰によって、どのような意図で歴史が書かれたのか」という、より深いメタな問いへと深化している。今後も考古学や科学技術の進歩によって新たな証拠が発見される可能性があり、聖徳太子という歴史的人物は、今後も学術的な探求の対象であり続けるであろう。
結論
聖徳太子の実在性をめぐる論争は、日本の古代史における最も重要な学術的テーマの一つであり、その分析は歴史探求の複雑さと多層性を明確に示している。本報告の分析が示すように、厩戸王という強力な王族は確かに実在し、推古朝において重要な役割を担っていた。しかし、伝統的に彼に帰せられてきた多くの偉大な業績は、死後、律令国家を正当化するために編纂された『日本書紀』によって、政治的・宗教的な理想像として再構築されたものである。
この結論は、伝統的な英雄像を完全に否定するものではなく、むしろ、歴史的真実と、時代が求めた物語がどのように結びついて国民的アイデンティティを形成していったかを明らかにする。この論争は、単なる古代史の事実関係の解明を超え、歴史というものが、常に新たな証拠や視点によって再評価され、再構築されうる動的なものであることを示している。そして、それはまた、歴史研究が国民の歴史観や教育と密接に結びついていることを再認識させるものでもある。今後も、新たな考古学的発見や科学的分析が、聖徳太子の歴史的実像に新たな光を投げかけ続けるであろう。