松平定信失脚後の幕政と時代潮流の変遷
序章:寛政の改革とその終焉
寛政の改革は、徳川吉宗の孫にあたる田安宗武の子、松平定信が主導した一連の幕政改革である 1。老中首座として政権を握った定信は、先代の田沼意次時代に横行した政治の弛緩と放漫財政を是正し、幕府財政の再建と社会秩序の引き締めを最大の目的とした 3。
その政策は多岐にわたる。財政面では、大奥の経費削減をはじめとする徹底した緊縮政策を推進 4。その結果、定信が失脚する頃には、幕府財政は黒字に転じ、20万両もの備蓄金を築くことに成功した 4。社会政策としては、生活に困窮する旗本や御家人を救済するための棄捐令 5、江戸に流入した農民を農村へ帰還させて年貢収入の安定を図る旧里帰農令 5、飢饉に備えるための囲米の制 5などが実施された。また、都市の住民には、町費の節減分を積み立てさせる七分積金 5を設け、有事の際の備えとした。これらの政策は、田沼時代の重商主義的な流れを否定し、農本主義的な価値観に基づいていたと評価されることが多い 3。
しかし、このような財政的成功を収めたにもかかわらず、定信は政権の座を追われることとなる。その直接的な契機となったのが「尊号一件」である 7。第119代光格天皇は、皇位に就いていない実父の典仁親王に対し、太上天皇の尊号を贈ろうと幕府に通達した 8。これに対し、定信は「未即帝位の者に皇号を与えるのは前例に反する」と主張し、朝廷の要求を強く拒絶した 8。この対立は単なる慣例を巡る学術的な議論に留まらず、徳川幕府の権威を揺るがしかねない朝廷側の挑戦と見なされた 8。定信は朝廷の強行な姿勢に対し、関係した公家を処罰する強硬策で臨み、最終的に天皇は不本意ながらも尊号を諦めるに至った 8。
この出来事は、定信の失脚が彼の改革の失敗や庶民の反発によるものではなく、むしろ幕府の権威を厳格に守ろうとする彼の政治姿勢が、朝廷との根深い対立を招いた結果であることを示唆している。寛政の改革は財政的には大きな成果を上げたが、定信の権威主義的で融通の利かない政治手法が、結果として彼の政治生命を縮めることになった。彼の失脚は、政策の功罪を超えた、政治的な力学の産物であったと言える。
第1章:大御所政治の幕開け
松平定信の失脚後、第11代将軍徳川家斉の治世が本格的に展開される。家斉は天明8年(1788年)に将軍職に就任し、将軍在職中に約50年間、政権を握り続けた 10。この長期にわたる治世のうち、特に文化・文政期を中心とする時代は、家斉が将軍職を家慶に譲った後も「大御所」として実権を握り続けたことから、「大御所時代」と称される 11。この「大御所政治」という言葉は、前将軍が隠居後も政治の実権を握り続ける特異な体制を指し、徳川家康と徳川家斉の二人が代表例として挙げられる概念である 12。
家斉の治世初期は定信の緊縮方針が継承されたが、文政期に入ると政治は次第に弛緩し、華美な生活と賄賂が横行するようになった 11。この政治的腐敗の背景には、将軍の側近や大奥の力が大きく影響していた。家斉の寵愛を受けた大奥の女中たちは、幕政を私物化し、幕府財政の行き詰まりをさらに深刻化させた 12。
中でも特筆すべきは、大奥御年寄・大崎の存在である 14。大崎は家斉が9歳で一橋家から江戸城に入った時から彼に付き添い、乳母のような立場でその成長を見守ったとされる 14。将軍就任後、彼女は本丸大奥で将軍付きの御年寄に就任し、その権力は政治に深く関わるほどに強大なものとなった 14。大崎は、家斉の実父である一橋治済の意向を受け、田沼意次を失脚させ、松平定信を老中に引き立てるために暗躍したという見解もある 14。この事実は、幕政の意思決定が、老中会議という公的な場だけでなく、大奥という非公式かつ閉鎖的な空間の力によっても左右されていたことを示唆している。大御所政治の本質は、将軍の個人的な権威と側近政治、そして大奥という特異な権力構造が結びついた「大奥政治」とでも呼ぶべきものであった。この構造的な腐敗は、幕政の公的なシステムが機能不全に陥っていたことの明確な証左であり、その後の時代に深刻な影響を及ぼすことになる。
第2章:財政と経済の動向:退廃と成長の二面性
大御所時代の幕府財政は、慢性的な赤字に苦しんだ 15。歳入が年間約150万両であったのに対し、歳出は約200万両に達していたという試算もある 15。この財政難を補うため、江戸城の西の丸焼失(天保9年)や本丸炎上(天保15年)といった大規模な普請に際しては、諸大名から「御用金」が強制的に徴収された 16。これは藩財政にも重い負担を課すことになり、小倉藩のように増徴を強いられた事例も報告されている 16。
しかし、幕府財政を支える最大の手段は、度重なる「貨幣改鋳」であった 10。家斉の治世では、文政元年(1818年)から天保3年(1832年)にかけて頻繁に改鋳が行われ、金銀の含有率が引き下げられた 10。この改鋳の最大の目的は、家斉の華美・驕奢な生活と、それに伴う多大な支出を賄うことにあった 17。この放漫な財政運営により、約570万両もの新しい貨幣が市場に供給されたと言われている 15。
この貨幣改鋳は、一見すると幕府財政の破綻を象徴する出来事であるが、経済全体に多面的な影響を及ぼした。改鋳による貨幣流通量の増加は、物価の高騰を招き、特に武士階級の生活を困窮させた 11。しかし、皮肉なことに、この大量の通貨供給は、アベノミクスに例えられるような、経済全体を活性化させる側面も持っていた 6。武士の生活を苦しめる一方で、活発化した商業活動は、都市の町人階級に経済的な力を与え、後述する化政文化の隆盛を支える経済的土台となったのである。政治的退廃が文化的な繁栄の経済的基盤となったという、一見矛盾する二面性をこの時代は内包していた。
株仲間制度への対応も、この時代の経済政策の変遷を象徴している。田沼時代には株仲間が積極的に公認され、営業税として冥加金が徴収されていた 20。これは商業資本の力を活用しようとする重商主義的な試みであった 6。松平定信は田沼政治を否定したとされているが 3、寛政の改革において株仲間を解散させることはなかった 22。これは、田沼時代の経済的合理性を完全に否定したわけではなかったことを示唆している。しかし、次に政権を担った水野忠邦は、物価高騰の原因を株仲間の独占にあると考え、解散令を出した 24。この急進的な政策は、従来の流通システムを崩壊させ、かえって市場に混乱を招いたため、10年後には再び株仲間の復活が認められることになる 24。この一連の流れは、幕府が貨幣経済の複雑性を完全に理解できず、場当たり的な政策に終始していたことを示している。
第3章:化政文化の隆盛とその社会背景
大御所政治の時代は、政治的な弛緩と財政的な退廃の時代である一方、文化的には空前の爛熟期を迎えた。この時期に花開いた「化政文化」は、元禄文化が上方(京都・大坂)を拠点としていたのに対し、江戸を中心として発展したのが大きな特徴である 26。文化の担い手は武士ではなく、経済力をつけてきた町人や庶民であり、彼らの生活や社会を皮肉や洒落で表現する傾向が強かった 26。化政文化は、三都だけでなく地方の庶民にも広く普及し、その影響は全国に及んだ 28。
この時代の文学を代表するのが「戯作(げさく)」である。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、庶民の旅行を面白おかしく描いた滑稽本であり 26、式亭三馬の『浮世風呂』もまた、庶民の日常を活写した 29。また、社会の機微を捉え、役人の腐敗などを風刺する川柳が流行した 30。
美術分野では「浮世絵」が最盛期を迎える。喜多川歌麿や東洲斎写楽が人物画で名を馳せた後、この時代には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』に代表される風景画が主流となった 29。これらの作品は、後に西洋の印象派画家に大きな影響を与えたことでも知られる 32。
学問と思想の分野でも、後の時代に大きな影響を与える動きが見られた。儒教や仏教以前の日本の精神に回帰しようとする国学は、本居宣長の死後、平田篤胤によって復古神道として説かれ、各地に広まっていった 28。この思想は、後に「尊王攘夷論」の土台となり、幕末の動乱に繋がる重要な伏線となった 28。また、長崎のオランダ通詞を通じて始まった蘭学も、蘭学塾が各地に設立されることで普及し、伊能忠敬による日本地図作成など、実学の発展に大きく貢献した 33。
この時代は、政治的権威の相対的な弛緩が、文化的活動に大きな自由と活気をもたらしたと言える。滑稽本や川柳による社会風刺が流行したことは、幕府の統制が弱まり、庶民が不満を公然と表現できるようになった証拠である。しかし、この自由な文化的土壌は、同時に幕府への批判精神を育むことにも繋がった。国学の発展と尊王思想の隆盛は、幕府がもはや思想を統制しきれない状況にあったことを示しており、文化の成熟は、単なる繁栄の象徴ではなく、来るべき社会変革の予兆でもあった。
第4章:内憂外患の時代:社会の動揺と幕府の危機
大御所政治の末期、日本は内政と外交の両面で深刻な危機に直面する。内政面では、天保年間(1830年~)に入ると、全国的な凶作が発生し、「天保の大飢饉」が引き起こされた 11。1833年から1836年にかけて、米の収穫量は例年の半分以下に落ち込み、米価が高騰、多くの餓死者が発生した 11。
この未曾有の危機に対し、幕府や諸藩は適切な対策を立てられなかった 11。飢えに苦しむ農民や都市の貧民は、全国各地で百姓一揆や打ちこわしを頻発させた 11。特に甲斐国の郡内一揆や三河国の加茂一揆は有名である 11。そして天保8年(1837年)には、大阪町奉行所の元役人であった大塩平八郎が、貧民を救済すべく武装蜂起を起こした 11。これは、幕府の役人自身が、腐敗した幕政と無策な富裕層に対する義憤から反乱を起こしたという点で、社会に与えた衝撃は極めて大きかった 10。天保の飢饉は単なる自然災害ではなく、大御所政治の無策と経済的な歪みを露呈させた。米が江戸に送られ、裕福な商人が米を買い占める一方で、町奉行所が適切な救済策をとらなかったという事実は、幕府が社会の構造的矛盾を解決する能力を失っていたことを示している 11。大塩の乱は、この腐敗と無能に対する、武士階級内部からの直接的な弾劾であり、幕府の権威が内側から崩壊しつつあることを象徴していた。
一方、外交面では、欧米列強の接近が深刻な問題となっていた 36。寛政4年(1792年)にはロシアの使節ラクスマンが、文化元年(1804年)にはレザノフが来航し、通商を要求した 34。そして文化5年(1808年)、イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を偽装して長崎港に侵入し、薪水・食料を強奪して退去するという事件が起こった 36。この事件は、当時ヨーロッパで繰り広げられていたナポレオン戦争の余波であったが、鎖国体制下の日本に大きな衝撃を与えた 36。長崎奉行は責任をとり自害し、長崎警護を怠った佐賀藩主は処罰された 36。この事件を受けて、幕府は寛政の改革以来の懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河・会津両藩に警備を命じた 36。しかし、この海防策は長年にわたる問題の先送りであったことを示唆しており、幕府が個別事件への場当たり的な対処に終始し、国全体としての対外政策を構築できていなかったことを証明している。内政の腐敗と外患への無策は、相互に深く結びついていたのである。
大御所政治期主要出来事年表(1793-1841)
年号 | 西暦 | 出来事 | 分野 | 関連資料 |
寛政5年 | 1793年 | ロシア使節ラクスマン来航 | 外交 | 34 |
文化元年 | 1804年 | ロシア使節レザノフ長崎来航 | 外交 | 34 |
文化5年 | 1808年 | フェートン号事件発生 | 外交 | 36 |
文化7年 | 1810年 | 江戸湾の防備強化を命令 | 外交 | 36 |
文政元年 | 1818年 | 文政の貨幣改鋳開始 | 経済 | 17 |
天保3年 | 1832年 | 歌川広重『東海道五十三次』版行 | 文化 | 29 |
天保4年 | 1833年 | 天保の大飢饉発生 | 社会 | 11 |
天保8年 | 1837年 | 大塩平八郎の乱発生 | 社会 | 10 |
天保8年 | 1837年 | 徳川家斉、将軍職を家慶に譲るも大御所として実権維持 | 政治 | 10 |
天保12年 | 1841年 | 徳川家斉死去、水野忠邦が実権掌握 | 政治 | 10 |
第5章:天保の改革:大御所政治の行き詰まりと新体制
内憂外患の危機が最高潮に達する中、大御所徳川家斉が天保12年(1841年)に死去すると、老中・水野忠邦が政治の実権を掌握した 10。忠邦は、享保・寛政の改革に匹敵する大改革を断行することを宣言 10。彼の改革の最大の目的は、政治の腐敗と弛緩を立て直し、特に農村人口の回復による年貢収入の安定と、物価高騰の抑制にあった 24。
天保の改革は、徹底的な風俗統制と倹約令に特徴づけられる 10。贅沢品の売買や庶民の娯楽(歌舞伎、寄席、花火)は厳しく取り締まられ、社会全体の引き締めが図られた 10。しかし、経済政策においては、拙速な判断が大きな失敗を招いた。忠邦は、物価高騰の原因を株仲間の独占にあると考え、解散を命じた 10。これは、自由競争を促すことで物価を下げることを意図したものであったが、実際には従来の流通システムが崩壊し、かえって市場の混乱を招いた 10。この失敗により、幕府は10年後の嘉永4年(1851年)に株仲間再興令を出すに至る 24。
水野忠邦の改革は、大御所政治の弊害を厳しく糾弾し、一見すると寛政の改革と類似した「引き締め」政策であった。しかし、彼の改革は急進的な経済政策の失敗によって大衆の反発を招き、期待した効果を上げることができなかった 24。この失敗は、単に忠邦の政策が拙速だったというだけでなく、大御所時代の50年間で貨幣経済が幕府の統制を超えて複雑に発達していたことを示している。もはや将軍や老中の号令だけで経済を動かすことは不可能になっており、この事実は幕政の行き詰まりを象徴する出来事であった。
表1:寛政の改革と天保の改革の比較
項目 | 寛政の改革 | 天保の改革 |
主導者 | 松平定信 | 水野忠邦 |
背景 | 田沼時代の政治の弛緩と天明の飢饉 | 大御所政治の腐敗、天保の飢饉、大塩の乱、外国船来航 |
目的 | 幕府財政の再建と秩序の回復 | 政治・社会の立て直し、内憂外患の解決 |
財政政策 | 徹底した緊縮と大奥経費削減 4、七分積金 5 | 徹底した倹約令、風俗統制令 24 |
経済政策 | 棄捐令 5、旧里帰農令 5、株仲間は存続 22 | 株仲間解散令 10、物価引き下げ令 24 |
結果 | 財政黒字化 4、定信は政治的対立により失脚 7 | 経済混乱、庶民の反発 10、忠邦は失脚 39 |
結論:松平定信失脚から天保の改革までを貫く時代潮流
松平定信の失脚後、幕府の政治は徳川家斉による大御所政治へと移行した。この時代は、政治的腐敗と財政的退廃が常態化する一方で、皮肉にも度重なる貨幣改鋳が市場に通貨を供給し、商業活動を活性化させた。この経済的「緩み」が、江戸を中心とした庶民文化、すなわち化政文化の爛熟期を支えたのである。化政文化は、庶民が主体となり、社会を風刺する文学や、風景を題材にした浮世絵など、多様な表現を生み出した 26。しかし、この文化的繁栄の裏側では、庶民の教養と政治意識が向上し、特に国学の発展は幕府の権威に対する批判精神を醸成し、後の尊王攘夷思想へと繋がる思想的基盤を形成した 28。
一方で、大御所政治の末期には、内政と外交における構造的な問題が顕在化した。天保の大飢饉とそれに伴う百姓一揆や大塩平八郎の乱は、幕府がもはや社会の構造的矛盾を解決する能力を失っていたことを露呈した 11。また、外国船来航やフェートン号事件は、国防という最も重要な課題においても、幕府の対応が場当たり的であり、長期的な戦略を欠いていたことを示した 36。
これらの内憂外患の危機を受け、水野忠邦による天保の改革が開始された。忠邦は、享保・寛政の改革に倣い、徹底した倹約と引き締めを試みたが、株仲間解散という急進的な経済政策の失敗は、市場の混乱を招くだけで終わった 24。この失敗は、もはや将軍や老中の号令だけで複雑化した貨幣経済を動かすことは不可能になっていたことを示唆している。
松平定信の失脚から天保の改革に至るまでの一連の流れは、幕府の統治システムが時代に適応できなくなっていく過程を物語っている。定信が失脚した理由が政策の失敗ではなく政治的対立であったのに対し、忠邦が改革を余儀なくされたのは、大御所政治期に蓄積された内政・外交の構造的な問題が原因であり、その性質は根本的に異なる。この時代は、太平の世の文化的爛熟と、来るべき激動の時代へのカウントダウンが同時に進行した、二つの顔を持つ時代であったと結論づけられる。