将棋の歴史:時代を築いた棋士たちの系譜
序章:盤上の魂――棋士たちが紡いだ将棋史
将棋の歴史とは、単なるルールの変遷や戦術の進化を記録した年代記ではない。それは、盤上という宇宙に魂を注ぎ込んだ天才たちの、知性と情熱が織りなす壮大な叙事詩である。一手一手に込められた棋士の個性、すなわち「棋風」は、その時代の精神を映し出す鏡であり、彼らの対局の軌跡こそが、将棋という文化を前進させてきた原動力であった。古代インドの起源から千数百年、日本で独自の深化を遂げたこの遊戯は、いつの時代も、その頂点に立つ一人の王者か、あるいは宿命のライバルによって定義されてきた 1。
本稿は、将棋の悠久の歴史を、各時代を象徴する棋士たちの生涯と業績を中心に描き出すものである。江戸幕府の庇護のもと専門棋士が誕生した黎明期から、近代化の荒波を乗り越え、戦後の復興期に盤上で火花を散らした巨人たち、そしてデジタル化の波が新たな天才を生み出した現代に至るまで。その道のりは、棋士たちが自らの存在を賭けて盤上に刻み込んできた、真理探究の物語に他ならない。彼らの人生を辿ることで、我々は将棋というゲームの奥深さと、それが日本の文化の中でいかにして磨き上げられてきたかを理解することができるだろう。
第一章:古代インドから日出ずる国へ――将棋の創生
日本の将棋が、今日見られるような複雑で深遠なゲームとなるまでには、長い年月と地理的な旅、そして決定的な一つの革命があった。その起源は遠く古代インドに遡り、日本に伝来した後、世界中の類を見ない独自の進化を遂げることになる。
1.1. チャトランガの旅路と日本への伝来
将棋の起源は、古代インドで生まれた盤上遊戯「チャトランガ」にあるというのが、今日最も有力な説である 1。このゲームは、歩兵、騎兵、象、戦車の4種の駒を用いた軍隊のシミュレーションであり、シルクロードを経て世界各地へと伝播していった。西へ向かった流れはペルシャを経てヨーロッパで「チェス」となり、東へ向かった流れは中国で「象棋(シャンチー)」、朝鮮半島で「チャンギ」へと姿を変えた 2。
日本への伝来時期や経路については、確たる物証に乏しく、いまだ謎に包まれている。中国・朝鮮半島を経由したルートと、東南アジアから直接伝わったとするルートの二つが考えられているが、いずれも決定的な証拠はない 1。文献上で将棋の存在が確認できる最古の記録は、平安時代中期、1058年から1064年頃に藤原明衡によって書かれたと推定される風刺文学『新猿楽記』である 1。また、現存する最古の将棋の駒は、1993年に奈良県の興福寺旧境内から発掘されたもので、同時に出土した木簡に「天喜六年」(1058年)の年紀があったことから、この時期にはすでに日本で将棋が遊ばれていたことが物証として確定している 1。これらの史料から、将棋は遅くとも11世紀半ばには日本の貴族社会に根付いていたと考えられる。
1.2. 日本独自の革命:「持ち駒」ルールの誕生
平安時代から戦国時代にかけて、将棋は様々なバリエーションを生み出した。「平安将棋」や、より駒数の多い「平安大将棋」「中将棋」などが存在し、人々は多様なルールで盤上の戦いを楽しんでいた 1。しかし、日本の将棋を世界の他の将棋類から決定的に分かち、その戦略性を比類なき高みへと引き上げたのは、15世紀から16世紀頃に考案されたとされる「持ち駒」の使用ルールであった 1。
このルールは、相手から取った駒を自軍の兵力として盤上の好きな地点に「打って」再利用できるという、画期的なものであった 4。チェスや象棋では、一度盤上から取り除かれた駒は二度と戦いに復帰することはない。それは純粋な「殲滅戦」であり、兵力の消耗戦である。対して持ち駒ルールが導入された将棋は、兵力が盤上から消えることなく、常に全体の総数が保たれる。敵兵は捕虜となり、寝返って自軍のために戦う。これにより、将棋は単なる戦力の削り合いから、資源を奪い合い、再配置する複雑な「転換戦」へと変貌を遂げた。終盤になっても盤上の駒が減らないため、ゲームの複雑性は最後まで維持され、逆転の可能性が常に残る、緊張感に満ちた展開を生み出すことになった 1。
この持ち駒という発想は、単なるゲームメカニクスの改良に留まらない、日本文化の深層にある価値観を反映しているとも考えられる。戦国時代の合戦において、敗れた武将が勝者に仕官し、その能力を再び発揮する例は枚挙にいとまがない。あるいは、海外から伝来した仏教や儒教といった思想が、日本古来の神道と融合し、独自の宗教観を形成していったように、異質なものを排除するのではなく、取り込んで自らの力とする「和魂洋才」の精神がそこには見られる。持ち駒ルールは、盤上においてこの「同化」と「再利用」の哲学を体現しているのである。この日本独自の革命によって、将棋は単なる遊戯から、無限の深みを持つ知的探求の対象へと昇華した。
第二章:江戸時代――専門棋士の夜明け
泰平の世が続いた江戸時代、将棋は大きな転換期を迎える。徳川幕府の庇護のもと、それまで個人の遊戯であった将棋は、家元制度という専門的な組織へと組み込まれ、職業としての「棋士」が誕生した。この時代に確立された制度と、その中で生まれた天才たちの活躍が、近代将棋の礎を築いたのである。
表1:将棋界の支配者たち――歴代名人と主要な王者
時代 | 称号・役職 | 氏名 | 主な活動時期 | 功績・特記事項 |
江戸時代 | 初代名人 | 初代 大橋宗桂 | 17世紀初頭 | 幕府公認の初代将棋所。家元制度の創始者。 |
三世名人 | 初代 伊藤宗看 | 17世紀中頃 | 実力で名人の地位を確立。家元の権威を守る。 | |
贈名人 | 伊藤看寿 | 18世紀中頃 | 詰将棋集『将棋図巧』を創作。詰将棋を芸術の域に高める。 | |
(最強の在野棋士) | 天野宗歩 | 19世紀中頃 | 「棋聖」と称された幕末最強の棋士。家元制度の枠外で活躍。 | |
近代 | 十三世名人 | 関根金次郎 | 20世紀前半 | 世襲名人制を廃止し、実力名人戦を導入。「近代将棋の父」。 |
戦後 | 十五世名人 | 大山康晴 | 1950-80年代 | タイトル通算80期。絶対王者として「大山時代」を築く。 |
実力制第四代名人 | 升田幸三 | 1950-70年代 | 「新手一生」を掲げた革命家。史上初の三冠独占。 | |
昭和後期 | 十六世名人 | 中原誠 | 1970-80年代 | 「自然流」の棋風で一時代を築く。タイトル通算64期。 |
平成 | 十七世名人 | 谷川浩司 | 1980年代- | 史上最年少名人(21歳)。「光速の寄せ」で知られる。 |
十九世名人 | 羽生善治 | 1990年代- | 史上初の七冠独占と永世七冠を達成。平成の絶対王者。 | |
令和 | 竜王・名人 | 藤井聡太 | 2020年代- | 数々の最年少記録を更新。史上初の八冠独占を達成。 |
2.1. 創始者:初代名人・大橋宗桂
江戸時代の将棋界の幕開けを告げた人物が、初代名人・大橋宗桂である 7。京都の町衆出身であった宗桂は、その卓越した棋力により、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代随一の権力者たちに仕えた 8。特に桂馬の使い方が巧みであったことから、信長より「桂」の字を賜り、「宗桂」と名乗るようになったという逸話も伝わっている 8。
将棋界にとって決定的な転機となったのは、慶長17年(1612年)、宗桂が徳川幕府から俸禄(五十石五人扶持)を与えられたことである 11。これは、将棋が幕府公認の技芸となり、その担い手が公的な身分を得たことを意味する。宗桂は囲碁の本因坊算砂とともに「将棋所」「碁所」を拝命し、将棋界の頂点に立つ存在となった 8。
これにより、宗桂を始祖とする大橋本家、その弟が興した大橋分家、そして宗桂の娘婿であった初代伊藤宗看が興した伊藤家の三家が「将棋家元」として確立された 12。以後、将棋界の最高権威である「名人」の地位は、この三家によって世襲され、約250年間にわたり将棋界を統べることとなる。宗桂の功績は、単に一人の強豪棋士であったことに留まらず、将棋を専門的な「道」として確立し、その後の発展の礎を築いた点にある。
2.2. 盤上の芸術家たち:石田検校の戦略と伊藤看寿の詰将棋
家元制度が確立される一方、江戸時代には公式の名人位とは別に、将棋の戦略や芸術性を大きく前進させた異才たちが登場した。
その一人が、元禄期(17世紀末~18世紀初頭)に活躍したとされる石田検校である 15。検校とは、当時、盲人のための職能組合であった当道座における最高の官位であり、石田は視覚に障がいを持ちながら将棋の達人となった人物であった 15。彼が創案したとされる「石田流」戦法は、飛車を三間(右から3筋目)に振った後、7筋の歩を突き、飛車を7筋に展開して敵陣を側面から突破しようとする攻撃的な作戦である 17。この独創的な構想は、300年以上が経過した現代の将棋においても、トッププロが採用する有力な戦法として生き続けており、その着想がいかに時代を超えた普遍性を持つものであったかを物語っている 15。
もう一人が、詰将棋の世界を芸術の域にまで高めた伊藤看寿である 7。家元・伊藤家の出身であった看寿は、宝暦5年(1755年)に不朽の名作とされる詰将棋集『将棋図巧』を著した 18。この作品集には、彼の神がかり的な創作能力を示す傑作が収められている。盤上の全駒(玉方を除く)が詰め上がりまでに煙のように消え去る趣向の「煙詰」、盤上に玉将一枚しか配置されていない状態から始まる「裸玉」、そして611手という驚異的な長手数を誇る「寿」など、その構想は当時の常識を遥かに超越していた 20。看寿の作品群は、将棋の持つ論理的な可能性と美学的な極致を示したものであり、その後の詰将棋創作に計り知れない影響を与えた。
2.3. 無冠の王:幕末の棋聖・天野宗歩
江戸時代の将棋史を語る上で、家元制度の矛盾を最も象徴する存在が、幕末期に活躍した天野宗歩である 23。宗歩は、名人の家系に生まれなかったため、生涯名人位に就くことはなかったが、同時代の誰よりも強く、「棋聖」と称えられた在野の巨人であった。
彼の棋風は、師である大橋宗桂が「紅の赤きが如き」と評したように、圧倒的なスピードと切れ味を誇る攻撃将棋であった 23。その強さは江戸中に鳴り響き、将棋三家の当主たちをことごとく打ち破った。家元側もその実力を認めざるを得ず、宗歩は将軍の前で対局を行う最高の栄誉「御城将棋」への出仕を許された 25。中でも、大橋分家の跡目であった大橋宗珉との一戦は、対局後に宗歩が吐血し、宗珉が病に倒れたと伝えられるほどの死闘であったと記録されており、その壮絶さを今に伝えている 23。
宗歩の存在は、将棋界における権威と実力との間に生じた乖離を浮き彫りにした。将棋所の頂点に立つ名人が、必ずしも当代最強の棋士ではないという事実は、世襲によって維持されてきた家元制度の正統性を揺るがすものであった。制度が実力者を正当に評価できないというこの構造的な問題は、幕府の権威が失墜していく時代の流れとも呼応していた。宗歩という無冠の王の存在は、やがて来るべき近代化、すなわち実力主義への移行を必然とする、歴史の大きなうねりを予感させるものであった。
第三章:新時代へ――将棋の近代化
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、将棋界もまた大きな変革の時代を迎える。幕府という最大の庇護者を失った家元制度は徐々にその権威を失い、将棋は新たな時代に適応する必要に迫られた。この激動の時代に、将棋界を近代的な組織へと導いたのが、一人の偉大な改革者であった。
3.1. 偉大なる改革者:関根金次郎と世襲制の終焉
その人物こそ、第十三世名人・関根金次郎である 12。彼はその功績により「近代将棋の父」として、後世の棋士たちから深く尊敬されている 27。
関根が名人位に就いたのは大正10年(1921年)、53歳の時であった 29。当時の名人位は、先代が亡くなるか引退するまで空くことのない「終身制」であり、関根自身も長い間、名人への道を待たなければならなかった 30。彼は、自らの弟子である木村義雄をはじめとする才能ある若手棋士たちが、自分と同じように貴重な全盛期を不本意な待機期間として過ごすことのないよう、制度改革の必要性を痛感していた 30。
昭和10年(1935年)、関根は将棋界の未来のため、歴史的な「大英断」を下す 30。300年以上続いた終身名人制を自らの代で終わらせ、名人位を返上することを宣言したのである 31。これにより、トーナメントによって最強者を決定する「実力名人制」への道が開かれた 27。この改革は、名人戦というドラマチックな興行を求める新聞社の思惑とも一致し、多額の契約金が将棋界にもたらされることになった 30。棋士の生活は安定し、将棋界は近代的なプロスポーツ団体としての基盤を確立した。関根金次郎の自己犠牲的な決断がなければ、今日のプロ将棋界の隆盛はあり得なかったと言っても過言ではない。
第四章:戦後の巨人たち――時代を定義したライバル
近代化の礎が築かれた将棋界は、第二次世界大戦後の復興期に、一対の宿命的なライバルによって黄金時代を迎える。同じ師の下で学びながら、棋風も生き方も対照的な二人の天才、大山康晴と升田幸三。彼らの激闘は、単なる勝負を超えて、戦後日本の人々の心を捉え、将棋を国民的な娯楽へと押し上げた。
4.1. 太陽:不倒の王者・大山康晴
「太陽」に喩えられる存在が、十五世名人・大山康晴である 32。彼はその圧倒的な実績と長期にわたる支配によって、将棋史に不滅の金字塔を打ち立てた。タイトル獲得通算80期、名人位18期(うち13期は連続防衛)という記録は、後世の棋士たちにとってあまりにも高く聳え立つ壁である 33。1950年代後半から60年代にかけて、彼は名人、十段、王位、王将、棋聖の五つのタイトルを独占する「五冠王」を幾度となく達成し、将棋界はまさしく「大山時代」であった 33。
大山の棋風は、派手さはないが、深く、粘り強く、そして何よりも負けないことを信条とするものであった。相手の攻めを冷静に受け止め、その力を吸収し、やがて反撃に転じて勝利を収める様は「受け潰し」と恐れられ、その強靭な守りは「二枚腰」と評された 33。彼は盤上での実力だけでなく、対局者の心理を揺さぶる「盤外戦」にも長けていたと言われる 33。その勝負に対する執念と現実的な指し回しは、羽生善治や藤井聡太といった後の世代のトップ棋士たちにも多大な影響を与え、彼らは大山の棋譜を並べることで強くなっていった 34。
4.2. 月:新手一生の革命家・升田幸三
大山が揺るぎない秩序と支配の象徴であったとすれば、「月」のような存在が、彼の兄弟子であり、終生のライバルであった升田幸三である 32。升田は、既存の定跡や常識に挑み続けた、将棋界随一の革命家であった。彼の信条は「新手一生」――生涯を通じて新しい手を創造し続けるという誓いであった 36。
升田は、現代でも広く使われる「升田式石田流」や「雀刺し」といった数々の独創的な戦法を編み出し、将棋の序盤戦術に革命をもたらした 17。彼の将棋は常にドラマチックで、観る者を魅了した。そのキャリアの頂点であり、将棋史に残る伝説となっているのが、1956年の王将戦である。当時、王将戦には挑戦者が3連勝した場合、次の対局を香車落ち(ハンデ戦)で行うという過酷なルールがあった。升田は名人であった大山を相手に3連勝し、続く第4局、香車を落としたハンデ戦でも勝利するという空前絶後の偉業を成し遂げた 32。これは、彼が棋士を志して家出する際に「名人に香車を引いて勝つ」と書き残した、少年時代の誓いを実現した瞬間であった 36。
大山と升田のライバル関係は、単なる二人の天才の衝突ではなかった。それは、将棋の進化における弁証法的なプロセスそのものであった。大山の現実的で盤石な将棋は、既存の戦術体系の完成形(正)を示していた。それに対し、升田の創造的で破壊的な将棋は、常にその体系に揺さぶりをかける挑戦(反)であった。升田が生み出す新戦法を、大山が受け止め、打ち破り、あるいは自らの血肉とすることで、将棋界全体の戦略レベルはより高次の段階(合)へと引き上げられていった。二人の存在なくして、現代将棋の豊かさはあり得なかったであろう。
第五章:王座を継ぐ者たち――新たな強さの形
大山・升田という二つの巨星が照らした時代が過ぎると、将棋界は新たな才能の出現によって、さらなる多様性の時代へと突入する。彼らは、それぞれが独自の哲学とスタイルを持ち、盤上に新たな強さの形を現出させた。
5.1. 大いなる川:中原誠と「自然流」
1970年代から80年代にかけて、大山時代の後継者として将棋界の頂点に君臨したのが、十六世名人・中原誠である。彼はそのキャリアで通算64期という、歴代3位のタイトル獲得数を誇る大棋士である 41。
中原の棋風は、その流れるように自然で、理にかなった指し回しから「自然流」と称された 41。攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける。その判断は常に的確で、無理な手や奇をてらった手を指すことなく、盤面全体の調和を重視した 41。まるで大河が悠々と流れるように、相手の抵抗をいなし、徐々に優位を築いて勝利へと至る。特に、大山が得意とした振り飛車戦法を打ち破る研究に優れ、「振り飛車破り」の名手として知られた 41。その論理的で隙のない将棋は、多くの棋士にとっての「教科書」となり、現代将棋の基本的な考え方の骨格を形成した。
5.2. 閃光:谷川浩司と「光速の寄せ」
中原の時代に、彗星の如く現れたのが十七世名人・谷川浩司である。1983年、彼は21歳2ヶ月という、当時の史上最年少記録で名人位を獲得し、将棋界に衝撃を与えた。この記録は、その後40年間にわたって破られることがなかった 43。
谷川の将棋を象徴する言葉が「光速の寄せ」である 44。彼の真骨頂は、他の棋士では到底思いつかないような、鋭く、そして恐ろしく速い終盤の寄せにあった。複雑な局面の中から、一瞬で相手玉を詰ますまでの最短経路を見つけ出し、電光石火の攻めで勝負を決める様は、観る者に畏怖の念さえ抱かせた 43。1991年度には竜王、王位、王将、棋聖の四冠を同時に保持するなど、そのキャリアを通じて通算27期のタイトルを獲得 43。谷川の登場は、将棋における終盤のスピード感を一変させ、その後の棋士たちに新たな目標を提示した。
第六章:平成の王朝――羽生世代の君臨
昭和が終わり平成の時代に入ると、将棋界は一人の天才と、彼を取り巻く同世代の強豪たちによって、かつてないほどの長期にわたる支配体制が築かれることとなる。彼らは「羽生世代」と呼ばれ、約30年もの間、将棋界の主役であり続けた。
6.1. 絶対王者:羽生善治と七冠制覇
その中心にいたのが、十九世名人・羽生善治である。彼の業績は、将棋というゲームの歴史において特異点とも言える輝きを放っている。1996年、羽生は当時の七大タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)をすべて同時に保持するという、前人未到の「七冠独占」を達成した 45。さらに2017年には、これら七つのタイトルすべてにおいて永世称号の資格を得る「永世七冠」という、これもまた史上初の快挙を成し遂げた 46。
羽生の強さは、特定の戦法や棋風に定義することができない「オールラウンド性」にある。居飛車も振り飛車も、急戦も持久戦も、あらゆる戦いを最高レベルで指しこなし、序盤、中盤、終盤のすべてにおいて隙がない 47。特に、絶体絶命と思われる劣勢の局面から、常人には見えないような妙手を放って逆転勝利を収める様は「羽生マジック」と呼ばれ、数々の伝説を生み出した 47。タイトル獲得通算99期という不滅の記録は、彼の絶対的な支配力を物語っている 46。
6.2. 天才たちの星座:黄金世代の総合力
羽生の偉業は、孤高の天才によってのみ成し遂げられたものではなかった。彼は、「羽生世代」と呼ばれる、1970年前後に生まれた才能豊かな棋士たちとの熾烈な競争の中で磨き上げられた 50。この世代には、羽生の終生のライバルであり、同じく名人の座に就いた森内俊之、緻密な読みで「緻密流」と称された佐藤康光、独創的な「藤井システム」で将棋界を席巻した藤井猛など、タイトル獲得経験を持つ強豪が綺羅星の如く存在した 50。
彼らは、若き日に島朗九段が主宰した「島研」と呼ばれる研究会などで、互いに最新の戦術をぶつけ合い、日夜研鑽を積んだ 53。それまでの師匠から弟子へと知識が伝達される徒弟制度的な研究スタイルとは異なり、同世代のライバルたちが協力して研究を進めるという、新しい形の努力がここにはあった。この相互作用が、世代全体のレベルを爆発的に引き上げたのである。一人が新しい戦術を編み出せば、数日後には研究会でその対策が練られ、さらにその上を行く改良が加えられる。この高速のフィードバックループが、羽生世代を他の世代から隔絶した存在へと押し上げた。彼らは個々の天才であると同時に、一つの巨大な「集合知」として機能し、平成の将棋界に揺るぎない王朝を築き上げたのである 50。
第七章:デジタルの frontier――AI革命とその申し子
21世紀に入り、将棋界は歴史上最も根源的な変化に直面する。それは、人間を遥かに凌駕する強さを持つ、人工知能(AI)の登場である。このデジタル革命は、将棋の戦略と思考のあり方を根底から覆し、そして、この新しい時代を象徴する一人の若き天才を生み出した。
7.1. シリコンの師:AIが変えた将棋戦略
コンピュータ将棋の進化は目覚ましく、2010年代には「Ponanza」などのAIプログラムが、トッププロ棋士を安定して打ち負かすレベルに到達した 55。かつては人間が定跡を創り、棋譜を研究することで強くなってきたが、今やAIは人間にとって最強の「師」となった。プロ棋士たちは、AIを研究ツールとして活用し、序盤の構想を練り、局面の優劣を判断し、人間では思いもよらなかったような新しい戦術を発見している 57。何百年もの間、人間の直感と経験によって培われてきた将棋の価値観は、AIの冷徹な計算によって次々と覆され、将棋の戦略はルネサンスとも言うべき爆発的な進化の時代を迎えた。
7.2. 新時代の寵児:藤井聡太と八冠時代
このAI時代を体現する存在が、藤井聡太である。2016年、彼は14歳2ヶ月という史上最年少記録でプロ棋士になると、デビューから無敗のまま公式戦29連勝という空前の新記録を樹立し、日本中に「藤井フィーバー」を巻き起こした 58。
その後の活躍は、まさに歴史を塗り替える連続であった。史上最年少でのタイトル獲得、谷川浩司の記録を40年ぶりに更新する史上最年少名人、そして2023年には、将棋界に存在する八つのタイトル(竜王、名人、王位、叡王、王座、棋王、王将、棋聖)をすべて同時に保持するという、誰も成し得なかった「八冠独占」の偉業を達成した 57。
藤井の強さの源泉は、その圧倒的な読みの正確さと深さにある。彼は幼い頃からAIを研究に取り入れ、その人間を超えたロジックを誰よりも深く理解し、自らの将棋に昇華させている 55。しかし、彼の強さは単にAIの模倣に留まるものではない。現代のトップ棋士は誰もがAIで研究している。その中で藤井が突出しているのは、AIが示す最善手を理解し、血肉化し、そして盤上で創造的に応用する、彼の世代に一人の天賦の才があるからに他ならない。AIが提示する膨大な情報を処理し、その背後にある本質的な意味を掴み取る能力において、彼は他の追随を許さない。藤井聡太は、AIという神から将棋を学んだ最初の人間であり、人間の知性と機械の知性が融合した、新しい時代の王者なのである。
結論:受け継がれる襷――将棋名人たちの不滅の遺産
将棋の歴史は、一つの壮大な駅伝にも似ている。初代名人・大橋宗桂が幕府の公認という形で最初の襷を繋いで以来、その時代の最強者たちは、それぞれの棋風と哲学を込めて走り、次の世代へとその重みを託してきた。
江戸の家元たちは制度の礎を築き、天野宗歩は実力の尊さを証明した。近代の扉を開いた関根金次郎の英断は、大山康晴の絶対的な支配と、升田幸三の革命的な創造性が花開く土壌となった。中原誠の自然流、谷川浩司の光速の寄せは、将棋の美学を新たな次元へと引き上げた。そして、羽生善治と彼が率いた黄金世代は、人間の知性が到達しうる極致を示し、将棋界に不滅の王朝を築いた。
今、その襷は、AIという新たな伴走者を得た藤井聡太の手に渡っている。彼が見せる盤上の真理は、我々が知る将棋の風景を一変させた。しかし、技術がいかに進化し、戦略がどれほど変わろうとも、将棋の本質は変わらない。それは、9×9=81マスの盤上で繰り広げられる、人間の知性と精神の限りない探求である。
大橋宗桂から藤井聡太へ。棋士たちが繋いできたこの襷は、これからも受け継がれていくだろう。盤上に魂を刻み込んできた名人たちの遺産は、将棋という文化が続く限り、決して色褪せることはない。